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SAN ANTONIO SPURS ONLY

スパーズファンのブログです。Twitterもやってます。rei(@sareim9)

ポップとパーカーの関係

note

試合がなくて書くことがないと思ってたところ、ちょうど読みたい記事が上がってたので、たまには訳して載せようかと。いつもなら自分で読んで終わりですけどせっかくブログ始めたので。拙い要訳・意訳なので、ちゃんと読みたい人は原文を読んで下さい。

 

www.expressnews.com

 

ポポビッチのバスケットボールにおいての"息子"であるダンカンが引退しましたが、ポポビッチとパーカーの関係を説明するのに適切な表現は何でしょうか?

「お爺ちゃんと孫のような関係」だとミルズは言います。

元スパーズのボウエンは「教師と生徒のような関係」とも表現しています。

 

ポポビッチとパーカーは15年共にし、つまり、5000日以上も指導と学習を繰り返してきました。今シーズン、ダンカンの引退はポポビッチに一時的な虚無感を残したかもしれませんが、パーカーはそれを補うのをゆっくり手伝ってきました。多くの人はダンカンと同時に引退するのかと想像していたでしょうが、ポポビッチが68歳の今でも続けている理由の1つにパーカーの存在があります。

パーカー「ポップは、"君が引退すれば私も引退する"と(ダンカンの時と同じように)僕に言ってくるんだ。」

ポポビッチとダンカンの関係は唯一無二ですが、それに似ているものがあるとすればポポビッチとパーカーの関係でしょう。父を亡くしたダンカンとは違って、パーカーには実の父親がいますが、ポポビッチはプロバスケ選手としてわずか19歳で海を渡ってきた少年にとってのもう1人の保護者のように務めてきました。

 

2001年6月27日、パーカーはスパーズにドラフトされました。

スパーズがパーカーをドラフトすると決めた数週間前、2人の関係は始まる前に終わろうとしていました。

GMビュフォードは、パーカーが将来スパーズのポイントガードとなるような素質を持っていることをポポビッチに示してもらうために、彼をワークアウトに呼びました。スパーズが関心を持ったことを知ったパーカーは、ドラフト前のワークアウトに参加するためにパリから12時間かけてシカゴに飛び、スパーズスカウトのランス・ブランクスが待っている場所へと真っ直ぐ向かいました。

ポポビッチには、無名のパーカーがリスクを負って獲得するに値する選手かを見極める必要がありました。そんなポポビッチが、パーカーのテスト相手を任されたブランクスにオーダーしたことはシンプルでした。

パーカーに立ち向かうこと。簡単にプレーさせないこと。フィジカルにプレーすること。パーカーがボールを持ったら苦しくさせること。

それがパーカーがNBAで生き残れるかどうかを見極めるポポビッチのテスト方法だったのです。

パーカーは「上手くプレーできなかった。」と当時を思い出します。

ブランクスはパーカーを苦しめ、フィジカルにディフェンスをしました。その結果、ポポビッチはパーカーがスパーズの将来のポイントガードになるようには思えず、ワークアウトが終わるとパーカーを帰らせました。結局、パーカーはポポビッチに印象付けることができませんでした。

パーカー「あの時ポップは僕にドラフトするつもりはないと言ったんだ。」

 

改善の必要があると知ったパーカーは追加のワークアウトに10回参加し、当時マジックのHCであったドック・リバースに印象付けることに成功しました。他にも、ジム・オブライエン率いるセルティックスが、ニューヨークでのワークアウトを見てパーカーをドラフトすることを考慮していました。そのセルティックスは、1巡目指名権を3つ持っていました。

最初のワークアウトでは12時間ものフライトがパーカーに悪影響を与えていたことも分かり、スパーズのパーカーに対する評価は徐々に上昇していきました。そして、今度はスパーズの練習施設でワークアウトするよう、ポポビッチはパーカーを呼びました。パーカーはサンアントニオへ飛び、ワークアウトを行った結果、ようやくポポビッチはパーカーを獲得することを望むようになりました。

28位の権利を持つスパーズは、パーカーを確保するためにトレードアップをしようと考えていました。しかし、パーカーに興味があり、10位11位21位の指名権を持っていたセルティックスがパーカーを指名しませんでした。同じくマジックも、リバースはパーカーを高く評価していましたが、ドラフトするには至りませんでした。そういった経緯で19歳のパーカーは28位でスパーズに指名されることとなりました。

 

ポポビッチはドラフト後、レポーターに言いました。

「彼は十分な才能を持っているが、それだけでは足りない。彼には強さや経験が必要で、それは今いるスパーズの選手たちから学ぶことになるだろうね。これから彼が成長する様が見られるよ。」

パーカーはドラフトされたことには満足していましたが、1巡目のほとんどから見落とされたことには納得していませんでした。28位より前に指名されたほとんどの選手よりも自分のほうが優れていると感じていたパーカーは、ドラフト後、電話でその失意をポポビッチに打ち明けました。

「自分はプレーできるとみんなに証明したかったのに。」とパーカーが言うと、ポポビッチは「心配するな、これから見せてやればいい」と励ましました。

この電話での会話が2人の関係を結ぶ最初の出来事となりました。

 

新しいコーチに早く自分のできることを見てもらいたかったパーカーは、すぐにユタで開催されるサマーリーグへの準備を始めました。

サマーリーグ初戦、75-80でキャバリアーズに敗れましたが、29得点を記録し、自身のパフォーマンスには満足していました。しかし、パーカーはポポビッチが試合を見に来ていないことに気づき、サマーリーグチームを率いていたACのマイク・ブラウンにポポビッチの所在を尋ねました。

「なぜポップがここにいないんだ?僕のプレーを見せたいんだ」

ブラウンはパーカーのデビュー戦についてビュフォードに伝えました。その時点でブラウンは、パーカーがすぐにチームにインパクトを与えることができる選手だと感じていました。それを聞いたポポビッチは、トレーニングキャンプではなくサマーリーグでパーカーのプレーを見る必要がありました。

ビュフォードポポビッチはパーカーの次の試合を見るためにユタへと飛び立ちました。その試合で、パーカーは20得点しナゲッツに勝利しました。

パーカー「ポップが見に来ているのを確認して嬉しかったのを覚えているよ。」

しかし、その試合に関して感想や意見があると期待していたパーカーは再び落ち込むことになります。なぜなら、ポポビッチは試合後なにも言わなかったのです。パーカーはその時、これから人生で最も厳しいコーチングを受けることになるとはまだ分かっていませんでした。

 

ポポビッチは、パーカーがコートリーダーとして必要な我慢強さを持っているかを知りたがっていました。ポポビッチは厳しくパーカーのあらゆるプレーを見ていました。もしパーカーがピック&ロールで間違った動きをすれば、ポポビッチは怒り続けていました。正しいパスをしなくても同じです。パーカーにはミスできる余地がありませんでした。

ポポビッチ「自分勝手な理由かもしれないが、私が彼に厳しくしていたのは、彼がNBAでプレーするための精神的な強さを持っているかどうかを早く知りたかったからだ。」

パーカー「彼は僕に時間をくれなかったよ。そして言うんだ、"やるか、休むか。やらないならトレードするぞ"ってね。」

外から見た人にはポポビッチがパーカーをいじめているようにも見えたかもしれませんが、ポイントガードNBAで生き残るためには必要なことでした。

当時のチームメイト、テリー・ポーター「絶えず指導していたよ。ポップはトニーが練習で直面したあらゆるシナリオに対して徹底的に確認していたし、何か間違いがあればすぐに正していたんだ。」

ボウエン「生徒の特別な才能を熟知している教師と同じように、ポップはTPに難題を与えることがあったよ。彼はTPに難題を与え、TPはその難題から学ぶんだ。」

ポポビッチの前では見せませんでしたが、パーカーは家で涙を流す瞬間もありました。果たして"ポポビッチ大学"で生き残れるのか?本当にNBAでプレーできるようになるのか?と。

パーカー「どうすればポップを満足させることができるか分からなかったよ。」

ジノビリ「特に最初の3年はね。トニーは若かったからポップは早く一人前にしたかったんだよ。トニーの力が必要だったからね。」

 

パーカーはその苦難には屈しませんでした。彼はフランスで育ちましたが、ポポビッチの厳しい訓練の間、父親の出身であるシカゴの屈強な精神が息子の心にも現れました。

パーカーの父「私には息子がどこでどんな状況でもやっていけるという確信だけはあったよ。」

パーカーはポポビッチに強靭さを示しました。そして、パーカーはポポビッチからの口撃に耐えただけでなく、練習でチームメートから退くこともありませんでした。パーカーはできる限りリムにアタックし続けたのです。数年後、パーカーはペイント内での得点リーダーとなり、その強さや我慢強さを証明することになります。

ボウエン「ペイント内での強さはAI(アイバーソン)のように見えるが、彼とは違う。TPは接触を嫌がらずにペイント内でフィニッシュすることができるんだ。」

パーカーの父は、息子にアドバイスしたことを思い出します。「何も恐がることはない。手に入れたいものがあるなら、必要なことはなんでもしなさいと言ったよ。そして彼は手に入れたんだ。」

パーカー「父は精神面で僕をよく助けてくれたよ。彼は、並の選手と偉大な選手たちとの違いは才能ではなくメンタルにあると信じていたのさ。おそらく僕より才能のある選手はたくさんいるしね。だけど父は僕に言うんだ、"彼らがお前より優れていても、メンタルでは負けるな"ってね。」

そのような気持ちを持つことで、パーカーは"ポポビッチ大学"のメンタル講義を終えることができました。

ポポビッチ「彼は素晴らしいよ。全て吸収して、すぐに良くなった。我々は彼に育成の時間を与えてやれなかったが、本当に早く成長してくれたよ。」

その生徒はついに教師からの信頼を得たのです。

 

シーズンを2勝2敗でスタートしたスパーズは、何か変える必要があるとポポビッチは感じていました。サマーリーグ、キャンプ、プレシーズンで十分パーカーを見てきた結果、ポポビッチはパーカーを試してみることにしました。

ロードでの敗戦からサンアントニオに帰る飛行機の中で、ポポビッチはパーカーを呼び出し、次のマジック戦でアントニオ・ダニエルズからパーカーにスターターを替えることを伝えました。しかし、最初パーカーはその機会に興奮することはありませんでした。

パーカー「心配だった。ポップにティミーはOKしたのかと聞いたんだ。ティミーとダニエルズは仲が良かったからね。自分のことよりもチームのことが気になったよ。みんなが納得してくれるのかって。そしたらポップは、ティミーは納得するよと言ってくれたよ。」

 

2001年11月6日、パーカーはNBAで初めてスターターを務め、12得点、3リバウンド、4アシスト、2スティールを記録し、勝利に貢献しました。

ポポビッチ「我々はこれがチームにとってベストだと決めたんだ。今そして未来のために若いポイントガードを育成しなければならなかった。」

パーカー「いい感じだったよ。ポップやチームメイトからの信頼も感じたし。だんだん自信が出てきたよ。」

パーカーはその自信をスパーズの勝利へと繋げました。彼がスターターに抜擢された最初の6試合で6連勝し、その間パーカーは平均13.2点、3.8リバウンド、6.0アシストを記録しました。

しかし、パーカーにはまだまだやらなければならない事がありました。知識が必要な彼は、シーズンが進むにつれてベテランガードのテリー・ポーターに近づくようになりました。仲良くなってポーターの家族と休暇を過ごすこともあったと言います。

ポーター「彼はいつも試合のことをたくさん知りたがっていたよ。リーグについて、ベストプレイヤーとのマッチアップの仕方、大事な試合での戦い方。試合についてできるだけ学ぼうとしていたんだ。」

そして、パーカーは2年目でスパーズの2度目の優勝に貢献しました。しかし、またポポビッチから新たな課題が与えられることになります。

 

3年目のシーズンのカンファレンスファイル、レイカーズ戦。パーカーは最初の2戦で平均25点、7アシストでシリーズを2-0でリードし、彼の自信は最高潮でした。

しかし、レイカーズはパーカーにアジャストしてきました。レイカーズが3,4戦を勝利し、2-2のタイに戻しました。追い詰められたスパーズにはパーカーの1,2戦のようなパフォーマンスが必要でした。しかしレイカーズはパーカーを完全に攻略し、結局彼はシリーズ平均で12点、26.8FG%に抑えられて、スパーズは2-4で破れました。そしてパーカーは自信を失くしていました。

パーカー「あのシリーズは勝てると思っていたからほんとに傷ついたよ。」

あの敗退はパーカーにとって正しい道へのステップとなりました。ポポビッチはパーカーをあのシリーズで使い続けることで、"good"プレイヤーから"great"プレイヤーになる目安を掴んでほしかったのです。

「すごく勉強になったよ。」とパーカーは言います。そして、あのプレーオフで足りなかったプレーの安定感や一貫性の必要性を説きます。「若い時はそれを手に入れることが次の目標だった。ある程度のレベルでプレーできるようになっても、それを毎試合できるようにならないといけなかった。」

ポポビッチ「毎試合一貫性を持ってプレーする必要がある。特にプレーを実行するポイントガードにはその責任があるんだ。」

 

その後、教師と生徒の関係は大きな進歩を遂げます。パーカーはポポビッチの考えを理解することに専念しました。彼は移動中もよくポポビッチの隣に座り、コーチの考えを心に刻みました。

パーカー「彼がコート上を見て、僕やチームにどうプレーしてほしいと思ってるのか理解しようとしたんだ。そうすれば年齢を重ねるにつれて、彼は僕に自由を与えてくれるようになったよ。初めは彼が全てのプレーコールをしていたんだ。徐々に自由が与えられたのは、信頼関係が育ってきたからだと思うよ。」

ポポビッチは自らの考えを共有できる司令塔をつくり上げることに成功しました。そして、スパーズはパーカーと共に更に3度の優勝を勝ち取り、バスケットボールの講義は修了しました。

ジノビリ「ポップはトニーを理想の選手に育て上げるという偉大な仕事を成し遂げたんだ。彼らはお互いを分かり合っているよ。」

 

ポポビッチとパーカーの関係を、お爺ちゃんと孫のような関係だとミルズが発言した数日後、ポポビッチはそのミルズの発言を聞かされると、彼は笑いました。

ポポビッチ「気にしないよ。実際にも孫はいるからね。」

ポポビッチはそれがおもしろいと思いましたが、ミルズは訂正しました。

「あの後そのことについて考えたんだけど、トニーとティミーは兄弟みたいだから、そうすればポップは父親ということになるね。」

テリー・ポーター「最初は教師と生徒みたいだったけど、後に父と息子のようになったよ。」

ジノビリ「ポップはコート外でも1人の男として育ててくれたとトニーはいつも言ってるよ。僕もポップを父のように思っているしね。」

 

もう近年は、ポポビッチはパーカーのメンタルを試すようなことはしません。パーカーのピック&ロールのミスを叱ることもほとんどなくなりました。

ポポビッチ「私たちはなんでも話すよ。バスケットについての話題は最も少ないけどね。長く一緒にいるとそうなってしまうんだ。」

バスケットボールの話題の代わりに、夕食時にポポビッチはパーカーと人生についてよく語ります。

パーカー「素晴らしい人間になるには、とかね。彼はたくさんのことを教えてくれたよ。みんなが知らないようなこともたくさんね。彼はオフコートでも素晴らしい人間なんだ。」

ダンカンがロードでディナーに参加しなかった時にポポビッチがキャロットケーキを持ってきてくれたように、ポポビッチはパーカーに同じようなことをしてくれますかと尋ねると、答えはノーでした。

パーカー「キャロットケーキは嫌いだからね。それに、それはティミーのことだから。」

ケーキの代わりに、ワインが彼らの共通の趣味でした。ポポビッチは一番のワイン愛好家としても知られています。しかし、それはパーカーが居ない時に限りますが。

 

今は5回目の優勝を追い求めているパーカーですが、ポポビッチと過ごした15年間を振り返りました。しかし、目立った特別な瞬間はなく、ポポビッチとの会話はどれも等しく大切なものでした。ポポビッチがいつも招待を待っているというパーカーが毎年開催するワインディナーのように、2人が過ごす時間は未だかけがえのないものです。

パーカーは今までポポビッチから貰った一番の贈り物は何かと聞かれました。

パーカー「僕を信じてくれたことさ。19歳の子どもにボールを預けるなんて大きな賭けだったに違いないよ。」

 

現在、パーカーは"長男"として新たな役割を果たしています。"父親"のポポビッチはパーカーにチームメイトの成長を助けることを期待しています。

ポポビッチ「今は新たにカワイやデジョンテのような若い息子たちがいる。新しい世代の始まりだよ。私が本当に好きなものの1つだ。ピック&ロールも飽きたし、アリーナに入るのも飽きた。メディアに話すことにもうんざりだよ。ただ、今はそんな若い選手たちに、コート内外問わず色んなことを教えるのが私の全てなんだ。」